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東京急行電鉄 『東京横浜電鉄沿革史』 東京急行電鉄、1943年より。


待望のわが東京横濱電鐵株式會社の沿革史が成り、序文を草するに當り、聖壽の萬歳と國運の隆昌を祝賀し、併せて戰歿將士の遺靈に滿腔の弔意を表し、戰線に奮鬪しつつある皇軍に對し、感謝の辭を捧ぐるものである。

顧ると私が舊東横電鐵の前身であつた武藏電氣鐵道株式會社の常務取締役に就任したのは大正九年五月であつた。

爾來二十有餘年、還曆を迎ふる今日迄の迂余曲折は一朝一夕に述べ盡し得ぬ底のものがある。或は自敍傳めく嫌があるやも知れぬが、極めて簡單に私の今日迄の體驗を敍し、大方の淸鑑を乞ふ事とする。

私は邊陬なる信州の農村に生れた。松本中學を卒業後上京し、高等師範學校(現在の文理科大學)に入學し、卒業して伊勢四日市の商業學校に教鞭を執つたが、思ふ所があり辭して東京帝國大學に籍を置いた。然し元來學費の出所とてある譯でなく、故嘉納治五郎先生の斡旋に依り、家庭教師として男爵富井政章家に寄寓し、其後加藤高明伯にも恩顧を蒙り、明治四十四年に卒業した。翌年文官高等試瞼に合格すると共に農商務省の官吏の職に就いたが、さる事情の下に間もなく鐵道省に轉任し、前後九年半の官吏生活を迭り、前記の如く武藏電鐵に關係するに至つたのである。

創立後十年餘を經過して居た武藏電鐵は、事業經營に適材が居らなかつた爲め全く進退谷まり、果ては鐵道敷設免許さへ取消されんとする危頽に頻して居たのを、故郷誠之助男が引受け經營する事となつたので、私は同男の招請に應じ鐵道省を辭し入社したのである。

斯くて從來の免許線の外に地下線に依る市内乘入(澁谷―有樂町間)の免許をも得、之等の建設資金として壹千萬圓の株式募集に着手したが、不幸にも大正九年の財界パニツクに災され、七轉八倒の苦心も甲斐なく壹千萬圓の株式募集は愚か、遂には使用人の給料支彿にも窮する迄に至つた。

當時故澁澤子爵經營に係る田園都市株式會社が鐵道敷設に對し行き惱んでゐたので、同社の顧問格であつた小林一三氏から私に入社の交渉があつたので、私は矢野恒太氏にも面接し、結局承諾する事とした。

私は田園都市會社から鐵道部を引きはなして新に目黒蒲田電鐵株式會社を設立し、その後專務取締役に就任した。

そこで武藏電鐵の建設事業は一時見迭りの形とし、目蒲電鐵の目黒・田園調布間を開通せしめ、次いで武藏電鐵より蒲田支線を讓り受けてこれを開通せしめた。

然し武藏電鐵の事業の遂行は、私自身本來の眼目であつたので、大正十二年の關東大震災を機に、武藏電鐵の株式過半數が目蒲電鐵の所有となり、同社全役員の辭職を見るに及び、私は改めて目蒲電鐡の代表者として武藏電鐡の專務取締役に就任し、名稱を東京横濱電鐵株式會社と改めた。

此時以來目蒲・東横兩社は全く異體同心の形となつたのである。

東横電鐡の建設事業は其後急速に進捗し、多摩川・神奈川間を第一期とし、多摩川・澁谷間及神奈川・櫻木町間と順序に豫定通り完成するに至つた。

然し、昭和四年頃から同八年頃へかけての世界的財界不況時代に於て、目蒲電鐵は略順調の業績を繼續し得たが、東横電鐵は如何ともなし得なかつた。其收入は更に増加せず、借入金の利子は拂はねばならず、借入金の利息を拂へば、一文の配當も出來ないのみならず、毎期赤字決算であつた。他方自動車業を開始して收入の一部を補ふ等鋭意業績の向上に努め、且つ地方鐵道法による政府の補助を仰いでゐたに不拘、年五分の配當も辛うじてなすと云ふ狀態であつた。私は眞に告白するが、この頃の苦境を考へると、二度と再び孫子の代迄鐵道の新線建設はさせまいと決心した位であつた。

然しながら斯かる苦境にあつても將來の社運に囑望し、諸學校の誘致或は百貨店の經營等、沿線開發の源となるべき諸施設を建植した。謂はゞかうした潜勢力の涵養が今日をなすに至つたのである、

尚、私の理想としてきた電鐵の整備統合に就ても深く留意し、昭和八年には池上電鐵を目蒲電鐵に、同十一年には玉川電鐵を東横電鐵に夫々合併した。此間會社の業績培養に資する爲め、可及的有利とみる事業會社を新設し又は買收して、多角經營方針に向つて進んで來た。さうかうして居るうちに支那事變の勃發があり、物資及資金の統制をはじめ、あらゆる方面に於ける經濟統制が強化され周知の如き多難の秋となつたにも不拘、東横電鐵の業績は、目蒲電鐵の業績と封等合併する迄に昂上したので、昭和十四年四月、茲に兩社を合併し以て一丸とし、資本金は七千二百五十萬圓となつた。

以上の如く觀じ來ると、吾れながらよくも生命を保持し得たものであると聊か奇異の感さへするのである。昭和十六年十二月八日には米英に對し宣戰布告の大詔が煥發せられ、内外共に盆々多事多難となり、事業統制も必然的に切迫して來たので、當東横電鐵と京濱・小田急との合流も勢ひその機運に逢着したので、遂に昭和十七年二月七目、三社合併の契約が成立、同年五月一日圓滿に之が實施を見るに至り、資本金は實に貳億四百八拾萬圓となつたのである。

本文を草した昭和十七年五月二十三日は、右に就き經過報告其他をなした臨時株主總會の當日である。終りに臨み東横電鐵や目蒲電鐵創立當初より私と困難辛苦を共にせられてきたる、篠原專務や鈴木、三宮兩取締役を初めとして、社員各位の御援助に對し深き敬意を表するものである。

東京横濱電鐵株式會社を過去の歴史に繰り入れ、新たなる發足の下に、更に將來への展開を企圖し、曠古の輝しい聖代の恩澤の萬分の一にも酬ゐ奉らんとするものである。

昭和十七年五月

東京横濱電鐵株式會社 取締役社長 五島慶太

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