東京横浜電鉄沿革史 緒言

東京急行電鉄 『東京横浜電鉄沿革史』 東京急行電鉄、1943年より。


試に眼を閉ぢて、過去二十餘年前後に於ける東南武藏野の一角を想起回顧して、當時の交通文化に憶ひを馳せるならば果して何が腦裡に描き出されるであらう。

今假りに目黒、澁谷、世田谷、駒澤、玉川等の間を繋ぐ一線を以て北西の境界とし、更に大井蒲田、横濱を連らねて南東地域線として、この地域だけについて觀察するとしても、その戸口の增加發展の跡は恐らく當時夢想だにもなし得なかつたものであらう。しかもこれを仔細に見るならば、そのあまりにも急激なる進歩發展に瞠目せざるを得ないであらう。所謂寒煙稀薄平蕪荒莽の一大原野に過ぎなかつた荏原、橘樹兩郡の舊態は今や全く一變して文化都市の樣相を整へ、近代的施設建築等漸次充實し來り、やがて大東京新發展地域の中心となる動きさへ認められるのである。

これは一つには時代の進化が自らにして齎らした現象とも解せらるゝが、吾人はこの曠野開拓の基をなした各種施設中、わけて電氣鐵道の發達の賜たるを痛感せずにはゐられない。而して事業はその人を得て始めて達成し得らるゝことに想ひ及ぶ時、わが電鐵事業の責務が如何に重且つ大なるかを深く自覺すると共に、今日の殷賑を招來せしめた事實に封して、轉た感概の新なるものなきを得ないのである。

なほこゝに吾人の忘れてならぬことは、右電氣鐵道をして今日の發達をなさしめ、且つ沿線地域の相貌を一變せしむるほどの開化誘導の根幹ともなつたものは、田園都市會社の創設經營であつて、同社の附帶事業たる電鐵敷設の計畫がやがて目蒲電鐵を産み、その發展が現在に到つたものである事である。而して目蒲電鐵より十年の長たる立場にあつた武藏電鐵の敷設も、池上、玉川兩電鐵も結局は遂にその後統合せられて、その支配權がわが社に單一化され、現狀のごとくなつたのである。

かうした意味から本沿革史の稿は、先づ田園都市會社の經營に筆を起すに至つたわけであるが抑も田園都市會社は形式上では目蒲電鐵に併合されたとはいふものゝ、生みの親と子とが同じ廂の下に住むに至つたに過ぎないのである。且つまた現在社名は東横電鐵を以てしてゐるものゝ、舊東横電鐵を併合したところの目蒲電鐵の商號を替へたものに外ならない故、主體は田園都市會社と異體同心であつた目蒲電鐵にあるのである。而して今日こゝに到達する迄の波瀾重疊拮据經營、その苦心その努力は單純なる筆技の能く盡し得ぬところで、本沿革史は唯如上の間に於ける經緯消長を忠實にしかも簡潔を旨とし、叙述すべく努めたものに過ぎないのである。

これを時代的に見れば明治、大正、昭和の三聖代にわたる約三分の一世紀となり、事業の地理的分布的支配圏から觀れば奮荏原、豊多摩、北多摩三郡を含む東京府より、橘樹、都筑の二郡及び横濱市等を抱く神奈川縣下へと延び、更に遠く埼玉、靜岡の兩縣下に跨り、遙に臺灣、支那大陸迄驥足を伸ばすに至つてゐる。

資本總額金七千二百五拾萬圓、これに傍系諸會社のそれ等を加算すれば、やがて一億圓に垂んとし、電鐵營業粁數に於ては、本社八三・五粁、傍系四五・一粁、自動車營業粁數は本社線二二五・三二粁、傍系二九六粁餘に及びこれ等に從事する社員數實に八千七百餘人に達してゐる。

本史の内容はこれを第一編沿革、第二編目蒲東横並立飛躍時代、第三編組織、第四編經理、第五編教育及び福社、第六編建設、第七編營業等に分ち、圖表其他二五枚、寫眞二六〇葉、本文紙數約七〇〇頁に及んでゐる。